「無意味な3つのお話」ユースフ・アル=カーイド

1.無駄な渡り

 金持ちが流れの激しい大きな川にやってくると、話しかけてくる声を聞いた。
「何かお探しですか、旦那?」
彼は答えた。
「私を背負って川を渡ってくれる人を探してるんだ」
すると不意に優しげな大男が目の前に現れた。金持ちは力強い男の背中に飛び乗ると叫んだ。「さあ、泳いで渡ってくれ」
 力強い男は川に飛び込んだ。遠くの岸辺が近づいてくると、彼は疲れはて今にも死にそうになっていた。
「私を無事に岸に運ぶまでは死なないでくれよ」
 金持ちは大男に叫んだ。
 力強い男は答えた。
「もちろんです。旦那さま」
彼は確かに金持ちの男を乾いた大地に連れていった。しかしそれからすぐに死んだ。
 死にかけながらも彼は金持ちに向けて手を伸ばした。
「渡し賃をください。埋葬代がいるんです」彼は嘆願した。
 金持ちは彼をこっぴどく蹴りつけたので死んだ男の腕は空中に飛んでいき、片腕だけが残された。金持ちは死んだ男に向かって叫んだ。「渡し賃だって?私が乗ってなければお前は川を渡れなかった。世知辛い世の中だ。お前が渡りきったのは奇跡だ。私なしではできなかっただろう。それなのにお前はお金をもらいたいって言うのか!」
金持ちは怒りつつ歩き始めた。
「まったく、世の中はどうなってるんだ。」
彼は一人言を言った。
「貧しい連中はどうして豊かになりたいなんて考えるんだ?取り締まる法律は無いものかね」


2.誰が船を沈めたか

 船が大洋を渡っている。船がどこから出航したのか、乗客は誰も知らないし、どこに着く予定かも知らない。乗客には2種類の人間しかいない。極端に裕福な者と極端に貧しい者だ。裕福な乗客たちは上層の特等室を独占し、貧しい乗客たちは下層の船室で暮らした。ある日、裕福な客の一人が死んだ。検死の後、医師は「過食による死」と診断した。
 貧しい乗客たちは驚き、不思議なこともあるものだと考えた。次の日貧しい乗客の一人が死んだ。医者は彼を検査して「餓死」と診断した。
 裕福な乗客らは驚き、珍しいことだと考えた。
数日後、気候が変わって船の上層での暮らしが耐え難いものになってしまった。船長は、船長も裕福な者の一人だったのだが、直ちに場所を入れ替えるように命じ、裕福な乗客は下層に、貧しい乗客は上層に移った。どちらの側も珍しい出来事に驚いた。
 それからまもなく船内の飲料水が切れてしまい、どうやって飲み水を手にいれるかが問題になった。
 貧しい人々は言った。「救援が来るまでみんなで我慢しよう」
 しかし裕福な人々は騒いだ。船長は2つの命令を出した。一つ目は再び場所を入れ替えること。裕福な乗客は上に上がり、貧しい乗客は下に降りた。人々は4つめの珍事だと噂した。裕福な客たちが登りきると、船長は二番目の命令を実行させた。船体にドリルで穴を開けて貧しい者たちが水を飲めるようにしてやるということである。
 船は沈み始め、貧しい者の一部は溺死した。しかし金持ち連中は信じなかった。船は沈み続けた。金持ちは下から涌き出てくる水をすすり、そして…

 

3.飢餓幻想

 国に変化が起こり人々が生活の向上を望んでいたころ、その一家の状況は悪化していた。母親は乳房を露にし、家長に向けて事態が改善するまで寝ているように頼んだ。一家はまるで家族の中に一人も男がいないかのように物事を進めるのだ。彼女は旅に出てあてもなくさまよった。男は4年間眠り、サイレンと愛国歌の声で目覚めた。彼は子供たちに聞いた。「食べ物は見つかったか?」
 子供たちは、父親が眠ってからみんな断食していると話した。まだ断食をやめられないし、母親も歴史的な旅の途上だし、国は敵と戦争している。子供たちは「戦争が終わったら何か食べるものが見つかるようになるといいな」と願っていた。
 父親は眠りに戻った。5年後、彼は路上での大騒ぎの音で目が覚めた。彼は子供の一人がいなくなっているのに気づいた。他の子供たちはまだ食べ物を見つけられずにいた。母親は旅を続け、国中が卵の割り方に関する刺激的な議論に巻き込まれていた。ある人々は右側から割るべきだと言い、他の人々は左から割るべきだと主張した。穏健派は真ん中から割るべきだと言っていた。父親は彼らの主張を理解しようとしたが、頭が疲れてしまってまた眠りに戻った。彼は彼は何か食べ物が見つかったら起こすようにと子供たちに言いつけたが、誰も彼を起こさなかった。
 父親は6年後、泣き叫ぶようなサイレンと軍歌の音で目を覚ました。目を開けるとまた子供が一人消えていた。どこか遠くの地で国が起こした戦争で戦死したのだという。物事は相変わらずだった。母親は探索の旅で不在だったし、子供たちは飢えていた。敵が国境に現れて戦わなければならなかった。悲痛な沈黙が子供たちを支配していた。父親が状況を理解するのに、もう言葉はいらなかった。彼は眠った。彼の神経系は今度は同じ年数にセットされたようだった。また目覚めると子供がもう一人消えていて、国は戦争の末期に突入していた。母親が帰ってくるという知らせがあった。彼らは依然飢えていたが、食べ物と希望と新しい生活がやってくる。あと一年の辛抱だ。
 父親は再び眠りに戻り三年寝た。彼は自分を取り巻く声に目を覚ました。目を開けると、彼は自分の生き残った子供たちがお互いを食べているのを見た。父親が起きたのに気づいて口をガバッと開いた。父親は恐怖に飛び上がり、大通りに逃げた。行進やパレードに使われた通りだった。彼の妻がいた。真っ裸で、大勢の人に身体を弄ばれていた。彼女は聞いたこともないような狂ったような笑い方で笑っていた。何人かの男が彼を食べようと向かってきた。彼は妻に守ってくれと頼んだ。
 彼女は叫んだ。「みんながみんなを食べている。そして私こそあなたを食べる権利がある」
 彼は肉も骨も全部そろった唯一の人物だった。通りにいる人々は他の人を食べるか、あるいは自分自身を食べていた。
 家長は目にしたものにぞっとした。彼は眠れる場所を探した。あらゆる方向から伸びる手が彼を取り囲み、食欲に駆られて彼をまさぐった。彼はこれらの手に降伏するしかなかった。彼はその上で眠った。人々は彼を担ぎ上げると大通りへと運んでいった。まるで大きな葬式の行進のように。

 

解説

 この3つの断章からなる短編はWilliam M. Hutchinsによって1986年に編纂された"Egyptian Tales and Short Stories of the 1970's and 1980's"(カイロ・アメリカン大学出版)に収録されていた"Three Meaningless Tales"を訳したものです。

 元は1982年にアラビア語で書かれた短編ですが、英訳しか入手できなかったので英語から重訳しています。

 作者のユースフ・アル=カーイドは1944年エジプト生まれ、小説、映画脚本、短編などを執筆し、1986年時点ではal Musawwar という雑誌の編集者をしているとのことです。

翻訳不可能な詩について

 私が受講しているアラビア語教室では現在エジプトのノーベル賞受賞作家ナギーブ・マフフーズの小説を読んでいます。

 この教室では基本的に日本人の先生のもとでアラビア語のテキストを輪読形式で翻訳する授業があり、月に1-2回アラブ人の先生との会話の授業があります。輪読の授業の中で読んだナギーブ・マフフーズの小説の中で登場する詩が先生にも理解できず、翌週にアラブ人の先生の力を借りてようやく理解することができました。ここでその詩の直訳を紹介しつつ、それがどのような意味になるのかアラブ人の先生に教えてもらった内容を紹介します。

 

あなたがたが来るのがわかっていたら

心臓の鮮血か目の黒いところを床に敷き詰めたのに

わたしたちの頬を床に敷き詰めたのに

そしてわたしたちは会って、

道のりはまぶたの上になるでしょう

 

 この詩は小説の中で突然現れた客に歌うように頼まれた女性が歌った(おそらく物語上は即興という設定の)詩です。身体を切り刻んで床に敷き詰める描写はなんだかグロテスクだし、「道のりはまぶたの上」というのも意味不明です。ところがその客はこの詩に何の疑問も抱かず喜んだようです。

 

 アラブ人の先生に聞いたこの詩の解説は以下のようなものでした。

 アラブでは友人を家に呼ぶときに「あなたがうちに来るときにはバラを床に敷き詰めましょう」という決まり文句がある。アラブの伝統的な家では床に絨毯を敷くが、敷物を良いものに取り換えることが客への歓迎の印になるという考え方があり、そのため歓迎の意を示すために現実的ではない敷物を提案することがある。もちろん本当に敷き詰めるわけではない。

 また、アラブの価値観では心臓や目は大切で美しいもので、客を歓迎するときには「あなたを私の心臓の中に置きましょう」とか「あなたを私の両目の間に置きましょう」という決まり文句がある。だから心臓の血や目を敷き詰めるという表現が出てくる。頬はなめらかで柔らかい部分なので床に敷いてあったら快適だろうということで、頬を敷き詰めるというのも歓迎の意味である。

 「道のりはまぶたの上」という箇所の道のりとは客との間に交わされる会話のことで、まぶたの上というのはお互いに見つめ合うということを意味する。

 ということで、猟奇的な詩に見えましたが、実際は純粋に客を歓迎する詩でした。

 

 文学的文章はしばしば翻訳が困難で意訳を求められることが多くあります。この詩の場合「道のりはまぶたの上」の部分は「見つめ合って話しましょう」のように意訳できますが、その前の「心臓の鮮血を敷き詰める」というような部分は心臓とか目の黒いところといった言葉選びにこの詩の特徴があるので意訳したらもはや別物になってしまいます。このような翻訳不可能な詩はアラビア語を勉強しているとしばしば出会いますが、ネイティブの先生にここまで丁寧に解説してもらえたのはまれなのでご紹介しました。

ガッサーン・カナファーニー「門の向こうの地平」

 梯子のてっぺんにたどり着く前に、彼は一息つこうと登るのをやめた。いや、このくらいで疲れているはずがない。彼自身も自分が決して疲れているわけではないことがわかっていた。ホテルの入り口のところで車を降り、小さなかごと、ご想像の通りあまり長くない梯子だけを持ってきたのだ。しかしその梯子の最後の3段になると、彼はいつも打ちのめされ、膝は溶け、執念を砕かれてしまう。
 彼はかごを梯子の上に置き、壁に寄り掛かった。彼は引き返すのだろうか?驚いたことに彼の中に問いが始まり、彼はそれから逃れられなかった。問いは彼の頭の中で鐘のように鳴り響いた。「引き返そうか?」そして彼の静脈の中でぐるぐる回り始めたためらいの渦の中で、彼は突然2年前にも同じように立ち止り、同じ問いをしたことを思い出した。その時は彼は一瞬ののち車に引き返し、エルサレムを発ったのだった。今彼は再び引き返すのだろうか?彼はかごに手を伸ばし、乱暴に持ち手を掴んで上に突き進んだ。まるで泥沼から体を引き上げるかのように。
 いや!今度は引き返さないぞ!この程度で逃げるなんて恥ずかしいじゃないか。10年の長きに渡って*1ずっと、おれの肩には重く惨めな運命がのしかかっていた。そして今こそ、おれはこの運命をマンデルバウム門*2の陰に洗い流さなければならない。占領された土地と残された土地を分けてそびえるあの石の門の陰に。

 

 そうだ。今度こそ逃げるものか。十年間ずっと、望んでかやむを得ず知らないがつき続けてきた嘘に、終止符を打たないといけない。
 2年前に彼がエルサレムに来たとき、彼は母に向き合い、すべてを話そうと心に決めていたのだった。しかしホテルの梯子の上で止まった時、彼は母についた長きにわたる嘘を拭い去ることはできないと感じた。彼はかつて母に無線でこのように偽ったのだ:「僕とダラール*3は無事だよ。みんなも無事でいますように」この10年間、嘘は野放図な成長を遂げ、もはや彼には真実を打ち明けるための言い訳が見つからなかった。真実を打ち明ける瞬間、それは取り返しのつかない、厳しい、そしておそらく致命的なものになるだろう……。だからその日は、彼は梯子を上るのをやめる方を選び、車へと戻った。彼の母親はこの午前中の間ずっと門の入り口のところに立って首を伸ばし、群衆の中に彼を探して過ごしたに違いない。そして苦く痛ましい失望を味わったに違いない。でも彼にとっては、母親の前に立つよりその方がずっとましだった。だが10年経った今、彼は致命的な真実を打ち明けようとしている。
 ベッドに横たわり、頭の下で腕を組んでいた。闇が眠れる町の上に手を広げはじめ、部屋の中には一つの激しい考えしかなかった。「明日、マンデルバウムに行かなければならない」
 そして明日、母は彼にやせ衰えた手を振り、白くなった髪と涙に濡れた老いた顔で彼に駆け寄るだろう。その涙は彼の胸に注がれ、母は瀕死の小鳥のように震えるだろう。そして、見捨てられた愛情を込める言葉も見つけられず、疲れ切った頭を彼の顔に擦り付けるだろう。そして、彼自身の心臓のように彼の胸で鼓動する母に、彼はいったいどんな言葉を掛けられるだろうか?彼はどこから話し始めなければならないのだろうか?
 ベッドの中で寝返りを打ち、全身が張り詰めた弦のようになった体の中で心臓が脈打っている様を想像した。初めから話し始めよう。母が彼に嫁がせることを決めた娘に会いに行くため、ヤーファー*4を出てアッカ*5に向う前からだ。彼はこの時のことをくまなく覚えている。母がどんな風に階段の上に立って、彼に幸福と成功を祈ったか。母の隣にはおば*6が立っていて、彼を安心させてくれた。彼はおばが、留守中に母と一緒にいてくれると知っているのだ。そして彼は一緒に行きたいと強く願った妹のダラールの腕を握りしめていた。10代の若々しい少女は、この時生まれて初めて兄と一緒に家を出るのだ。
 しかし、二人が望んだようには事は運ばなかった。ヤーファーを出て数日後、道が分断されて帰れなくなった。母から離れて過ごすこの暗黒の日々の中、彼は不安に苛まれた。彼自身のためではなく、ダラールのために。彼女は母にとってのすべてだった。家では、死がすぐそばに来ている中で年老いた母に生きる喜びを与えていたのは彼女だった。物事がすべて死を意味している時に、母の人生すべてを意味していたのは彼女だった。
 いや、こんな話に母は興味を持たないだろう。こんな話よりも、母が知らない部分の方が大事に決まっている。
 再び彼はベッドの中で困惑して寝返りを打った。部屋は青白い病的な光で揺れていた。小さなかごが、まるで生き物のように壁にもたれかかっていた。彼はなぜ結論から話さないのだろうか?なぜ彼は母親に、どんな風にユダヤ人がアッカに侵入し、それからどう物事が進んだかを話さないのだろうか。
 彼の面前に地獄が広がった時、彼はその部屋の中にいた。アッカを闇が包み込もうとしていた時、彼は周囲の人々と一緒に帰った。*7彼のカービン銃は中身を全部吐き出して、棒と化していた。何の役にも立たないただの乾いた棒に。彼は自分の部屋に入り、ダラールを抱きしめた。彼女は町を覆う恐ろしい闇の中で泣いていた。ドアの上の壁はすでに崩れていた。そこから機関銃がけたたましく部屋の中に銃弾を雨のようにばらまいた。そして煙が晴れると、四人の男が彼の目の前で木製のドアをふさいでいた。しかし彼は動かなかった。ダラールが自らの血だまりの中で震え、最期の呼吸をしていた。まるで心臓と血液を彼女に注ぎ込みたいかのように彼が彼女を胸に抱きよせたとき、彼女は彼を見つめ、何か言おうと眉を上げた。しかし死が言葉の道を塞いでしまった。
 彼は泣いただろうか?今や彼はこの時のことを何も覚えていない。彼が覚えているのは、死んだ妹を両手で運び、通りに駆け出して通行人の目の前に掲げ、涙を流すように懇願したことだけだった。まるで彼一人の涙だけでは足りないかのように。人びとがいつ、彼の両腕から死体を取り上げることができたのか、彼にはわからない。しかし彼は、死んだ妹を失った時、彼女の冷たく硬い死体を失った時、自分が全てを失ったと感じた事は覚えている。彼の土地も、家族も、希望も。もはや自分の人生そのものを失うことなどどうでもよかった。そしてこの時から、彼は自分の土地を捨て、鞭のように追いかけてくる運命から逃れて山に向かった。

 

 これを全部話したら、十年間で築き上げた大きな嘘は消え失せる。そしてその瞬間に母はダラールが十年前に死んでいて、息子が無線で「僕とダラールは無事だよ。みんなも無事でいますように」という冷たい文を熱心に繰り返した時に嘘をついていたということがわかるだろう。
 彼は立ち上がって窓に向かい、暗い色のカーテンを開けて通りを見つめはじめた・・母を嘘から解放しなければならない。そして自分自身を、一人で背負ってきた黒い運命から解放しなければならない。ダラールがそこに埋葬され、彼女の小さな墓には命日の度に花束を手向ける人もおらず、母親である彼女もその墓を訪れることができないと言わなければならない。
 再会はその翌朝早く、大きな門の陰で行われた。アリー*8が人びとの顔を精査していた時、母親は見えなかった。そこにいたのは彼のおばだけだった。はじめ彼はおばに気づかなかったが、おばは群衆の中の自分の居場所から彼を見つけることができた。再会の喜びの中、おばはいきなり核心をついた質問をした。
 「ダラールはどこ?」
 その期待に満ちた小さな目に、彼の決意は溶けてしまった。まるで不思議な力が彼の喉をつかんで容赦なくゆすり始めたかのように。
 「でもおばさんも、母さんがどこにいるのか言ってないよね?」
 二人の視線が再び交差した。アリーはかごを反対の手に持ち替え、何か言おうとした。しかし彼の喉は湾曲した刃のような平たいものでふさがっていた。おばは手を伸ばして彼の腕に置いた。そしておばの、彼が正直に言わないことを悲しむ気持ちがこもった声が、彼に迫ってきた。
 「ダラールはどこ?」
 「ダラール?」
 そして再び、彼は弱さが自分の膝を食べるのを感じ、自らを気絶の感覚に追いやるように見えた。彼は手を持ち上げてかごをおばの方に差し出した。
 「このかごを母さんに持っていって。緑のアーモンドが入ってる」
 彼は続きを言えなかった。老いた女性の両目から悲しげな視線が注がれ、彼女の唇が震えはじめた。彼は彼女の肩の向こうを見ながら弱々しく続けた。
 「母さんが好きだったから・・」
 二人の間に広がった墓場のような長い沈黙のうちに、彼は自分を逃亡に追いやる恐るべき欲求を感じた。おばが、ダラールの服が入った小さなカバンを指でかき回すと、二人の胸の間に生々しい感覚が到来した。彼女は動かず、静かな涙で目が光った。彼は輝く刃が自分の喉を傷つけるのを感じた。彼が手を伸ばすと、おばはその手に向けて顔を上げた。そして彼は弱々しく訪ねて自分を救出した。
 「ヤーファーからどうやって出てきたの?」
 おばは何か言おうとしたが、できなかった。言葉の激流が彼女の喉に押し寄せてきた。彼女は黙って、そして驚いたように意味もなく微笑んだ。そして震える手を伸ばし、不器用な慈愛をこめて彼の肩を撫でた。彼はマンデルバウム門の背後に広がる地平を静かに見つめていた。
 クウェートー1958年

 

*1:この短編が発表されたのは1958年で、イスラエルが独立を宣言し第一次中東戦争が始まった1948年の10年後にあたる。

*2:1949~1967年の間、イスラエル支配下西エルサレムとヨルダン占領地の境界にあった門。

*3:女性の名前。

*4:パレスチナの地中海沿岸にある都市。現在はイスラエル領テルアビブと呼ばれる。

*5:パレスチナの地中海沿岸北部にある都市。現在はイスラエル領アクレと呼ばれる。ヤーファーとの距離は120km。

*6:アラビア語ではおばが母より年上か年下かを区別しないので伯母/叔母を特定できない。その代わり父方か母方かが区別される。

*7:彼は自分の家に帰ったが、家にいたはずの母とおばは既に他の地域に避難した後だった。イスラエルによる突然の攻撃により多くのパレスチナ人は避難を余儀なくされ、連絡を取ることもままならなかった。

*8:主人公の名前。

Lamma Bada Yatathanna

イスラーム統治下のスペインで作曲されたLamma Bada Yatathannaという曲について紹介します。

 

Lamma Bada Yatathanna( アラビア語:لما بدا يتثنى)は長い歴史を持つアラブの歌で、作詞・作曲者は不明ですが現在も様々な歌手によって歌い継がれています。

 

Lena Chamamyanという歌手が歌っている動画が以下にあります。

ゆったりとした曲調ですが演奏をよく聴くとタブラ(打楽器)の刻むビートが思いのほか速く変則的なのに驚かされます。8分の10拍子らしいです。

youtu.be

 

Lamma Bada Yatathannaはイスラーム教徒が現在のスペイン・ポルトガルにあたる地域を支配していた時代(711-1492年)に書かれた曲で、ムワッシャハというジャンルに分類されます。

(イスラーム教徒のスペイン支配やムワッシャハについてはこのWikipedia記事に詳しく書いてあります)

 

この曲の歌詞は古い時代に書かれたため非常に訳しづらい(と英訳を載せているサイトの著者がみんなそう言っている)ので、色々な英訳を参考に苦し紛れの翻訳をしてみました。

 

現れたとき、彼女はしゃなりしゃなりと歩いていた

愛する人、その美しさが私たちを魅了した

一瞬のうちに何かが私たちを虜にした

ひとたび傾けば枝は折れる

私の約束と困惑

誰が私の苦悩に情けをかけてくれるだろう

苦しい恋心からくる愛の苦悩に

美の主を除いては

詩のフォーマットを自作してみた

 吉増剛造の『詩とは何か』を読んで、吉増が原稿用紙をそのまま使わずにしわを寄らせたり、インクをたらしたりして色々といじくってから書くということを知りました。

 そこで、私は今まで読書会用の詩をWordで書いてきましたが、書くための場を自分で色々いじりながら作ってみたら面白いのではないかと思い、実践してみました。

 

 まず、私は吉増の文章に繰り返し登場する「歪み」という概念を使って、歪んだレイアウトの詩を作ってみたいと考えました。ある程度どういう風にしたら歪んだレイアウトになるか考えた上で、それをどのように実現するかChatGPTに相談しました。

私は詩人です。今、私は自分が書いた詩を以下のようなフォーマットでプリントしようとしています。これが可能なソフト、あるいはプログラムのライブラリ等を教えてください。

・一行の中で、フォントサイズを端に行くほど小さくしたい

・詩の全体で、中心の行ほど字数を少なくしたい

・詩の全体で、中心の行ほどフォントサイズを小さくしたい

「私は詩人です」というのは違いますが、ChatGPTと対話するうえで自分の立場を明確にしたかったのであえてこういう言葉を使いました。

ChatGPTは詩のフォーマットを作る手段として以下の3つを提示してきました。

  1. Adobe Illustrator
  2. LaTex
  3. プログラミング(Pythonでは、PDFや画像ファイルの生成を扱うライブラリ(例えば reportlabPIL/Pillow)が利用できます。)

そこで私は3のプログラミングを選択し、ChatGPTと対話して必要なライブラリの情報を得てコードを書き始めました。

 

プログラムを効率的に書くために、最近GitHubが提供を始めたCopilotという機能を使うことにしました。Copilotとは、GitHub(プログラムを共有するサイト)に共有されたコードを学習したAIが、人間がプログラムを書いている途中で自動でコードの続きを提案してくれるという機能です。

これが想像以上に優れた機能でした。

私は今回使うライブラリに慣れているわけではないので他の人のブログを参照してサンプルコードを打ち込むことから始めたのですが、打っている途中でもう続きを予想して書いてくれます。サンプルコードの内容は多くの人が同じように書くような内容なのでほとんどCopilotの予測だけで完成しました。

その後私がやりたいことを実現するためにコードを改造する作業に入りましたが、その際もCopilotは威力を発揮しました。まるで私の心を読んでいるかのように私が書きたいコードを先回りして書いてくれます。先回りどころか、「ここはちょっと考えないといけないな」と思っていた箇所も見事に実装してくれました。

 

以下が、完成したコードを使ってフォーマットした詩です。ちなみに詩はChatGPTに書いてもらいました。

自作したフォーマットで書いた詩

当初考えていた3つの条件のうち1つ目はあまりに面倒くさいことが分かったので実装せず、2番目は詩の内容次第なので結局3番目の条件しか達成していません。あと、途中で思いついて中心に行くほどフォントの色を薄くしたりしています。

・一行の中で、フォントサイズを端に行くほど小さくしたい

・詩の全体で、中心の行ほど字数を少なくしたい

・詩の全体で、中心の行ほどフォントサイズを小さくしたい

 

完成したものが面白かったかというとそうでもないですが、AIとの相互作用を通じでものを作った経験はなかなかに刺激的でした。

 

最後に実際に作ったコードを載せておきます。

#Pillowライブラリをインポート
from PIL import Image, ImageDraw, ImageFont
#numpyライブラリをインポート
import numpy as np

#テキストファイルの読み込み
f = open('poem.txt', 'r', encoding='UTF-8')
#テキストファイルの内容を変数に格納
text = f.read()
#テキストファイルの内容を一行ずつリストに格納
textlist = text.splitlines()
#テキストファイルを閉じる
f.close()

#フォントカラー用の変数
fontcolor = 0

#フォントサイズ用の変数
fontsize = 45

#フォントサイズの初期値(定数)
fontsize0 = 40

#フォントサイズの変化率(定数)
fontchange = 10

#テキスト描画位置の変数
textposition = 150
#テキスト描画位置の初期値(定数)
textposition0 = 30

#テキスト描画位置の変化率(定数)
textchange = 100

#白い画像を作成
im = Image.new("RGB", (841, 841), (255, 255, 255))

#中央に10行のテキストを描画
draw = ImageDraw.Draw(im)
for i in range(1, 8):
    fontsize = fontsize0 - int(fontchange * np.log( i))
    textposition = textposition0 + int(textchange * np.log( i))
    line = textlist[i - 1]
    font = ImageFont.truetype("C:\Windows\Fonts\meiryo.ttc", fontsize)
    draw.text*1
    fontcolor += 30

for i in range(1, 8):
    fontsize = fontsize0 - int(fontchange * np.log(9 - i))
    textposition = textposition0 + int(textchange * np.log(9 - i))
    line = textlist[7 + i]
    font = ImageFont.truetype("C:\Windows\Fonts\meiryo.ttc", fontsize)
    draw.text*2
    fontcolor -= 30

#画像を保存
im.save('poem.jpg', quality = 95)

*1:textposition, 10 + 45 * i), line, font=font, fill=(fontcolor, fontcolor, fontcolor

*2:textposition, 330 + 45 * i), line, font=font, fill=(fontcolor, fontcolor, fontcolor

マージダ・エル・ルーミー 「カリマート(言葉)」

youtu.be

歌:マージダ・エル・ルーミー
歌詞:ニザール・カッバーニー
作曲・編曲:イフサーン・ムンジル

 


一緒に踊る時、彼はわたしに耳を傾ける
言葉は言葉のようでない
一緒に踊る時、彼はわたしに耳を傾ける
言葉は言葉のようでない
わたしの腕の下に手を差し入れて持ち上げ
彼は私を雲の上に植え付ける
一緒に踊る時、彼はわたしに耳を傾ける
言葉は言葉のようでない
わたしの腕の下に手を差し入れて持ち上げ
彼は私を雲の上に植え付ける

わたしの目の中の黒い雨が
ザアザアと降り注ぐ
わたしの目の中の黒い雨が
ザアザアと降り注ぐ
彼はわたしを連れて行く連れて行く
バルコニーでの薔薇色の夕べへと
バルコニーでの薔薇色の夕べへと
ああ、ああ

わたしは子供のように彼の手の中で
そよ風に運ばれる羽根のよう
わたし、わたし、わたし、わたしは彼の手の中で
そよ風に運ばれる羽根のよう
ああ、ああ、彼の手
そよ風に運ばれる羽根のよう

彼は太陽をくれる、彼は夏をくれる
彼は太陽をくれる、彼は夏をくれる
そしてツバメの群れを

彼はわたしが美術品だと言ってくれる
千の星々にも匹敵すると
彼はわたしが美術品だと言ってくれる
千の星々にも匹敵すると
わたしは宝物だと
今までに見たどんな絵画より美しいと
言葉、言葉、言葉、言葉

彼はわたしを酔わせるようなことを語る
ダンスホールもステップも忘れさせるようなことを
言葉がわたしの歴史をひっくり返す
言葉がわたしを、わたしを、わたしを
言葉がわたしを刹那の女にする

彼はわたしに幻想の城を建てる
彼はわたしに幻想の城を建てる
わたしはそこには住まない
わたしはそこには住まない
わたしはそこには住まない
わずかな瞬間をのぞいては
わたしは帰る自分のテーブルに帰る
わたしは帰る自分のテーブルに帰る
わたしは帰る自分のテーブルに帰る
わたしのもとには何もない
わたしのもとには何もない
言葉をのぞいては

言葉は言葉のようでない
わたしのもとには何もない
言葉をのぞいては

 

マージダ・エル・ルーミー「ベイルートが帰るとき」

youtu.be

前文

この曲を港*1を目撃した人々、そして敬虔なレバノンの証人であるすべての人々に捧げます。
そして、不可能に立ち向かい、人々の意志に反する一連の犯罪的な謀略に耐え、この世の民衆が絶えることのできない恐怖を経験したレバノンの人々に捧げます。
私たちが祖国の安定と奪われた自由を近いうちに回復するという願いを込めて。
また、できるだけ早く、いと高き神の思し召しでベイルートが無事に戻ることを願いながら。

 

歌:マージダ・エル・ルーミー*2
歌詞:ニザール・カッバーニー*3
作曲:ヤフヤー・ハッサン

 

歌詞和訳

ベイルートがわたしたちのところに無事帰ってくるとき
わたしたちの知っているベイルートが帰ってくるとき
鳩が巣に帰るように帰ってくるとき

その時は旅の記録を海に投げ込もう
それから月の家に椅子を2つ借りて
一緒に時を過ごそう 一緒に時を過ごそう
ラブソングが実る場所で 樹木が育つ場所で

ああベイルート
この旅は一体どれほどわたしたちを疲れさせるのか
わたしたちを濡らしておくれ、濡らしておくれ
恋人たちの手紙で
雨樋で

美しいベイルートは再び破壊の手から逃れることができるのか
麦は海水から生える事ができるのか
それともたくさんの波とともにやってくるのか

わたしたちは再び詩を書くことができるのか
アーモンドの実の上に
綿雲の上に

ああベイルート
この旅は一体どれほどわたしたちを疲れさせるのか
わたしたちを濡らしておくれ、濡らしておくれ
ああベイルート
わたしたちを濡らしておくれ

ああベイルート
この旅は一体どれほどわたしたちを疲れさせるのか
わたしたちを濡らしておくれ、濡らしておくれ
恋人たちの手紙で
小鳥たちの歌で
雨樋で
わたしたちを濡らしておくれ

ああベイルート
一体どれほどわたしたちを疲れさせるのか
この運命は

*1:2020年8月4日に発生したベイルート港爆発事故を指す。この曲は2023年8月2日にYouTubeに公開された

*2:マージダ・エル・ルーミー(1956-):レバノンを代表する女性歌手の一人。

*3:ニザール・カッバーニー(1923-1998):シリアの著名な詩人。多くの詩がアラブ歌謡の歌詞になっている。