ガッサーン・カナファーニー「門の向こうの地平」

 梯子のてっぺんにたどり着く前に、彼は一息つこうと登るのをやめた。いや、このくらいで疲れているはずがない。彼自身も自分が決して疲れているわけではないことがわかっていた。ホテルの入り口のところで車を降り、小さなかごと、ご想像の通りあまり長くない梯子だけを持ってきたのだ。しかしその梯子の最後の3段になると、彼はいつも打ちのめされ、膝は溶け、執念を砕かれてしまう。
 彼はかごを梯子の上に置き、壁に寄り掛かった。彼は引き返すのだろうか?驚いたことに彼の中に問いが始まり、彼はそれから逃れられなかった。問いは彼の頭の中で鐘のように鳴り響いた。「引き返そうか?」そして彼の静脈の中でぐるぐる回り始めたためらいの渦の中で、彼は突然2年前にも同じように立ち止り、同じ問いをしたことを思い出した。その時は彼は一瞬ののち車に引き返し、エルサレムを発ったのだった。今彼は再び引き返すのだろうか?彼はかごに手を伸ばし、乱暴に持ち手を掴んで上に突き進んだ。まるで泥沼から体を引き上げるかのように。
 いや!今度は引き返さないぞ!この程度で逃げるなんて恥ずかしいじゃないか。10年の長きに渡って*1ずっと、おれの肩には重く惨めな運命がのしかかっていた。そして今こそ、おれはこの運命をマンデルバウム門*2の陰に洗い流さなければならない。占領された土地と残された土地を分けてそびえるあの石の門の陰に。

 

 そうだ。今度こそ逃げるものか。十年間ずっと、望んでかやむを得ず知らないがつき続けてきた嘘に、終止符を打たないといけない。
 2年前に彼がエルサレムに来たとき、彼は母に向き合い、すべてを話そうと心に決めていたのだった。しかしホテルの梯子の上で止まった時、彼は母についた長きにわたる嘘を拭い去ることはできないと感じた。彼はかつて母に無線でこのように偽ったのだ:「僕とダラール*3は無事だよ。みんなも無事でいますように」この10年間、嘘は野放図な成長を遂げ、もはや彼には真実を打ち明けるための言い訳が見つからなかった。真実を打ち明ける瞬間、それは取り返しのつかない、厳しい、そしておそらく致命的なものになるだろう……。だからその日は、彼は梯子を上るのをやめる方を選び、車へと戻った。彼の母親はこの午前中の間ずっと門の入り口のところに立って首を伸ばし、群衆の中に彼を探して過ごしたに違いない。そして苦く痛ましい失望を味わったに違いない。でも彼にとっては、母親の前に立つよりその方がずっとましだった。だが10年経った今、彼は致命的な真実を打ち明けようとしている。
 ベッドに横たわり、頭の下で腕を組んでいた。闇が眠れる町の上に手を広げはじめ、部屋の中には一つの激しい考えしかなかった。「明日、マンデルバウムに行かなければならない」
 そして明日、母は彼にやせ衰えた手を振り、白くなった髪と涙に濡れた老いた顔で彼に駆け寄るだろう。その涙は彼の胸に注がれ、母は瀕死の小鳥のように震えるだろう。そして、見捨てられた愛情を込める言葉も見つけられず、疲れ切った頭を彼の顔に擦り付けるだろう。そして、彼自身の心臓のように彼の胸で鼓動する母に、彼はいったいどんな言葉を掛けられるだろうか?彼はどこから話し始めなければならないのだろうか?
 ベッドの中で寝返りを打ち、全身が張り詰めた弦のようになった体の中で心臓が脈打っている様を想像した。初めから話し始めよう。母が彼に嫁がせることを決めた娘に会いに行くため、ヤーファー*4を出てアッカ*5に向う前からだ。彼はこの時のことをくまなく覚えている。母がどんな風に階段の上に立って、彼に幸福と成功を祈ったか。母の隣にはおば*6が立っていて、彼を安心させてくれた。彼はおばが、留守中に母と一緒にいてくれると知っているのだ。そして彼は一緒に行きたいと強く願った妹のダラールの腕を握りしめていた。10代の若々しい少女は、この時生まれて初めて兄と一緒に家を出るのだ。
 しかし、二人が望んだようには事は運ばなかった。ヤーファーを出て数日後、道が分断されて帰れなくなった。母から離れて過ごすこの暗黒の日々の中、彼は不安に苛まれた。彼自身のためではなく、ダラールのために。彼女は母にとってのすべてだった。家では、死がすぐそばに来ている中で年老いた母に生きる喜びを与えていたのは彼女だった。物事がすべて死を意味している時に、母の人生すべてを意味していたのは彼女だった。
 いや、こんな話に母は興味を持たないだろう。こんな話よりも、母が知らない部分の方が大事に決まっている。
 再び彼はベッドの中で困惑して寝返りを打った。部屋は青白い病的な光で揺れていた。小さなかごが、まるで生き物のように壁にもたれかかっていた。彼はなぜ結論から話さないのだろうか?なぜ彼は母親に、どんな風にユダヤ人がアッカに侵入し、それからどう物事が進んだかを話さないのだろうか。
 彼の面前に地獄が広がった時、彼はその部屋の中にいた。アッカを闇が包み込もうとしていた時、彼は周囲の人々と一緒に帰った。*7彼のカービン銃は中身を全部吐き出して、棒と化していた。何の役にも立たないただの乾いた棒に。彼は自分の部屋に入り、ダラールを抱きしめた。彼女は町を覆う恐ろしい闇の中で泣いていた。ドアの上の壁はすでに崩れていた。そこから機関銃がけたたましく部屋の中に銃弾を雨のようにばらまいた。そして煙が晴れると、四人の男が彼の目の前で木製のドアをふさいでいた。しかし彼は動かなかった。ダラールが自らの血だまりの中で震え、最期の呼吸をしていた。まるで心臓と血液を彼女に注ぎ込みたいかのように彼が彼女を胸に抱きよせたとき、彼女は彼を見つめ、何か言おうと眉を上げた。しかし死が言葉の道を塞いでしまった。
 彼は泣いただろうか?今や彼はこの時のことを何も覚えていない。彼が覚えているのは、死んだ妹を両手で運び、通りに駆け出して通行人の目の前に掲げ、涙を流すように懇願したことだけだった。まるで彼一人の涙だけでは足りないかのように。人びとがいつ、彼の両腕から死体を取り上げることができたのか、彼にはわからない。しかし彼は、死んだ妹を失った時、彼女の冷たく硬い死体を失った時、自分が全てを失ったと感じた事は覚えている。彼の土地も、家族も、希望も。もはや自分の人生そのものを失うことなどどうでもよかった。そしてこの時から、彼は自分の土地を捨て、鞭のように追いかけてくる運命から逃れて山に向かった。

 

 これを全部話したら、十年間で築き上げた大きな嘘は消え失せる。そしてその瞬間に母はダラールが十年前に死んでいて、息子が無線で「僕とダラールは無事だよ。みんなも無事でいますように」という冷たい文を熱心に繰り返した時に嘘をついていたということがわかるだろう。
 彼は立ち上がって窓に向かい、暗い色のカーテンを開けて通りを見つめはじめた・・母を嘘から解放しなければならない。そして自分自身を、一人で背負ってきた黒い運命から解放しなければならない。ダラールがそこに埋葬され、彼女の小さな墓には命日の度に花束を手向ける人もおらず、母親である彼女もその墓を訪れることができないと言わなければならない。
 再会はその翌朝早く、大きな門の陰で行われた。アリー*8が人びとの顔を精査していた時、母親は見えなかった。そこにいたのは彼のおばだけだった。はじめ彼はおばに気づかなかったが、おばは群衆の中の自分の居場所から彼を見つけることができた。再会の喜びの中、おばはいきなり核心をついた質問をした。
 「ダラールはどこ?」
 その期待に満ちた小さな目に、彼の決意は溶けてしまった。まるで不思議な力が彼の喉をつかんで容赦なくゆすり始めたかのように。
 「でもおばさんも、母さんがどこにいるのか言ってないよね?」
 二人の視線が再び交差した。アリーはかごを反対の手に持ち替え、何か言おうとした。しかし彼の喉は湾曲した刃のような平たいものでふさがっていた。おばは手を伸ばして彼の腕に置いた。そしておばの、彼が正直に言わないことを悲しむ気持ちがこもった声が、彼に迫ってきた。
 「ダラールはどこ?」
 「ダラール?」
 そして再び、彼は弱さが自分の膝を食べるのを感じ、自らを気絶の感覚に追いやるように見えた。彼は手を持ち上げてかごをおばの方に差し出した。
 「このかごを母さんに持っていって。緑のアーモンドが入ってる」
 彼は続きを言えなかった。老いた女性の両目から悲しげな視線が注がれ、彼女の唇が震えはじめた。彼は彼女の肩の向こうを見ながら弱々しく続けた。
 「母さんが好きだったから・・」
 二人の間に広がった墓場のような長い沈黙のうちに、彼は自分を逃亡に追いやる恐るべき欲求を感じた。おばが、ダラールの服が入った小さなカバンを指でかき回すと、二人の胸の間に生々しい感覚が到来した。彼女は動かず、静かな涙で目が光った。彼は輝く刃が自分の喉を傷つけるのを感じた。彼が手を伸ばすと、おばはその手に向けて顔を上げた。そして彼は弱々しく訪ねて自分を救出した。
 「ヤーファーからどうやって出てきたの?」
 おばは何か言おうとしたが、できなかった。言葉の激流が彼女の喉に押し寄せてきた。彼女は黙って、そして驚いたように意味もなく微笑んだ。そして震える手を伸ばし、不器用な慈愛をこめて彼の肩を撫でた。彼はマンデルバウム門の背後に広がる地平を静かに見つめていた。
 クウェートー1958年

 

*1:この短編が発表されたのは1958年で、イスラエルが独立を宣言し第一次中東戦争が始まった1948年の10年後にあたる。

*2:1949~1967年の間、イスラエル支配下西エルサレムとヨルダン占領地の境界にあった門。

*3:女性の名前。

*4:パレスチナの地中海沿岸にある都市。現在はイスラエル領テルアビブと呼ばれる。

*5:パレスチナの地中海沿岸北部にある都市。現在はイスラエル領アクレと呼ばれる。ヤーファーとの距離は120km。

*6:アラビア語ではおばが母より年上か年下かを区別しないので伯母/叔母を特定できない。その代わり父方か母方かが区別される。

*7:彼は自分の家に帰ったが、家にいたはずの母とおばは既に他の地域に避難した後だった。イスラエルによる突然の攻撃により多くのパレスチナ人は避難を余儀なくされ、連絡を取ることもままならなかった。

*8:主人公の名前。